MENU
まとい
18

纏(まとい)といえば、江戸っ子の人気を集めた「町火消(まちひけし)」のシンボルとして、時代劇などで見たことがある人も多いことと思います。

纏はもともと戦国時代、合戦の場で敵味方を見分けるための目印として掲げた大型の幟(のぼり)が起源とされます。それらは的率(まとい)ないしは馬印(うまじるし)と呼ばれ、16世紀以後さかんに用いられるようになりました。馬印は、竿の先に趣向を凝らした飾り (だし=「陀志」あるいは「出し」) を施し、長く馬簾(ばれん)と呼ばれる房のように垂れ下げた細長いラシャや厚紙、革などで作った飾りを垂らしたものでした。

江戸の太平の世になると武家が戦場で纏を使うこともなくなり、大名火消が消火活動の際に用いたことから、消防の現場で使い始められました。
享保3(1718)年、大岡越前守は町火消設置令を出し、町人による町火消(まちひけし)が組織されます。その2年後の享保5 (1720) 年から町火消に纏の使用が許されるようになります。その際の纏は吹流しのタイプの幟で、今日知られている馬簾つきの纏が許されるのは天保2 (1831) 年になってからのことです。この時、馬簾の数も48本に定められました。
明治5(1872)年、町火消が消防組と改称された際に、受持区域を6つの区域に区分けするようになり、纏の馬簾48本すべてに1本から6本の黒線が入れられるようになりました。

纏づくりは、木地師が下絵をもとに型起こしをし、木地から切り出す(木取り)ことから始まります。纏は軽く、また強いものでなければならないので、桐の板を用いて中を空洞にした張り子の状態に組み合わせて、「だし」を作っていきます。木を組むのに使われるのは、「うつぎ」と呼ばれる木の釘です。丹念にかんなで削って整え、やすり掛けした後、塗師が和紙を糊で貼り、乾かした後に胡粉(ごふん。貝の殻を細かく砕いたもの、火事場で火が燃え移らないようにするため)を塗り、さらにその上に重ねて胡粉を塗って仕上げていきます。区分けの線を書き入れた馬簾を付けて完成です。