手拭
江戸時代(1603~1867年)の浮世絵を見ると、さまざまな職業の庶民が手拭をかぶっており、“かぶりもの”として愛用されていたことがわかります。そもそも「かぶりもの」という言葉は「冠(かんむり)」に由来します(かんむり→かぶり→かぶりもの)。手拭は「冠」つまり神事に使う儀礼的装身具でした。
手拭の古語は「たのごひ」で、「た=手」「のごひ=拭う」という意味があります。当初は神仏に対し物や体を浄める儀礼装身具として使われており、「たごのひ」も「浄める」という意味が強くありました。寺社へお参りする際、髪が出ないようにかぶることもあったことから、かぶりものとしても使われるようになり、次第に日よけや雨よけ、ほこりよけに使われるようになっていきました。「手拭」と呼ばれるようになったのは江戸時代で、それ以前は「たなこい」「てのこい」「ゆて」と呼ばれていたようです。
江戸時代以前は絹や麻で作られており、高級品でした。江戸時代に高価な輸入品だった木綿が国産で作られるようになると、手拭も木綿製になり、庶民の間にも普及していきました。
手拭の幅は、江戸時代を通じて反物の幅(約35cm)が定着していましたが、長さについては、用途に応じて反物から必要な分だけ買う習慣があったようです。それが江戸時代末期になると現在の手拭に近い長さの90cmのものも売られるようになりました。
使われ方も多彩になり、かぶりものとしての用途のほか、体を拭う、洗う、食器を拭く、包みものにする、裂いて鼻緒などのひもにして使う、衿掛(えりか)け、ねじり鉢巻、縫い合わせて浴衣にする、帯にするなど、身近で便利な万能アイテムとして、庶民に愛用されました。
江戸時代後半には、色やデザインが豊富になった手拭を楽しもうという風潮が広がりました。天明4(1784)年に上野不忍池ほとりの寺院で、劇作者・山東京伝(さんとうきょうでん:1767~1816年)が「手拭合(たなくひあわせ)」という品評会を開いたことはよく知られており、浅草寺境内の浅草神社裏に、山東京伝机塚の碑があります。
また、手拭のデザインとして関連がないように見える文字や絵を並べて模様にし、それが意味するものを考えさせる謎解きの一種である「判じ物」も流行しました。例えば歌舞伎の七代目団十郎「かまわぬ」なら鎌の絵と、○=わ、平仮名の「ぬ」を並べます。それらに影響を受け、庶民の間でも屋号や商店の名前を模様にした判じ物が作られました。
手拭は、その使い勝手の良さと多彩な染色技術とデザイン性から、粋筋(いきすじ:花柳界)の粗品や商人の宣伝用、歌舞伎、落語などの小道具、婚礼、誕生などの名入りの記念品等として広く使われています。
- 下絵を描く:型染の工程を念頭に、彩色・デザインする
- 型作り:型屋が原画にそって型を彫刻刀で彫る
- 染め:型をもとに染屋が1色ごとに染める
染め絵手ぬぐい ふじ屋
川上千尋・川上正洋
台東区浅草2-2-15
03-3841-2283